
1994年から1999年の間、私はドイツ フライブルグ国立音楽大学院およびソリスト科に留学していました。
このコーナーでは当時の留学体験記や懐かしい思い出を面白おかしく書きつずっています。ドイツ留学や海外音楽留学を志す方は是非、参考にしてみて下さい。
1994年から1999年の間、私はドイツ フライブルグ国立音楽大学院およびソリスト科に留学していました。
このコーナーでは当時の留学体験記や懐かしい思い出を面白おかしく書きつずっています。ドイツ留学や海外音楽留学を志す方は是非、参考にしてみて下さい。
93年に同志社女子大学専修生を終えた頃、私はもっと打楽器を知りたい、もっとソロの勉強をしたいと欲が出た。
オーケストラへの道か、ソロへの道かそれまで迷ったけど、結局やりたい方向はその時点で決まっていた。
早速師匠に相談しながら、フランスかアメリカかオランダかドイツという方向で考えた。打楽器ソロという面でオランダかドイツと絞られた。そんな中、ドイツに打楽器ソロで留学している人がいて、師匠を通して情報を提供して頂いた。
ドイツは、ほとんどの音大生がオーケストラを目指すので、ソロを勉強したい場合、学校が限られてきた。カールスルーエ(教授 中村功氏)、フライブルク(Prof .ブルフ氏)、ミュンヘン(Prof. ザドロ氏)、ケルン(Prof. カスケル氏)と候補があがった。
93年冬、とりあえずコンタクトが取りやすかった、カールスルーエとフライブルクへ行ってみた。フライブルクでWulff先生にお会いして、レッスンをしてもらい、「来年の春からまず聴講生でいらっしゃい。」と言ってくださり、早速94年の春にフライブルクへと発った。
ドイツ語も全然出来なかった私は、その頃フランスで暮らしていた姉、愛子(現在フランスリール管弦楽団打楽器奏者なのです!)とベルナール(実は今の愛子の旦那です。)に手伝ってもらい銀行口座を開くことや、その他の身の回りの買出しなど、手伝ってもらった。私達はとりあえず、家の近所の銀行を探し、そこで口座を開いてもらった。
ドイツは、PostBank,VolksBank,Sparkasse,DeutcheBankなどなどいろいろな銀行があるが、日本と同じように利子が違うのでいろいろ調べてから口座を開いたほうがいいでしょう。銀行にお金を預けておくことで半年か1年に一回、お金をとられるけれども、それも学生割引みたいのもある銀行があります。ちなみに私はそこに口座を開きました。。
その頃初めて一人暮らしをしたアパートはWulff先生が所有していたアパートを夏の受験までという期間で貸して下さったものだった。
1LDKで16畳くらいのとても広い部屋(当時月々水道代電気代全て込みで760DM=46000円位)にベット、机、お皿などが揃っていたのでとても助かったけど、その頃はテレビもラジオも無く、音のない生活をしていた。電話だけがひかれていて、音のなるのは電話の呼び出し音と外の車の音だった。
毎日、午前中は語学学校へ通い、午後からは音大で夜まで練習した。聴講生という身分は、学生が練習する以外の時間の練習が可能だったため、いつも学生が休憩する間や夜などの部屋が空く時間を待って、それを利用し、練習していた。その頃は”練習の鬼”というあだ名がついていたほど、狂った様に、ただただ練習し学生からは呆れられていた。
今まで高校も大学も推薦入学していたので、受験をするという”意識”は初めての経験であり、夏の受験までの3ヶ月間は緊張でいっぱいだった。それもドイツ語も英語も出来ないで、いきなり外国へ突入して来てしまい、今から思えば思い切った行動をしてまわりの人に大変迷惑かけてしまったと反省している。
それに外人恐怖症の様なものになり、自分の周りに壁を作ってしまい、話し掛けられても解からないし、おまけに話すことも出来無い自分が情けなく自然にひとりでいることが多くなった。そして練習から自宅に戻ると広い部屋に音もなく静かでとても寂しかった。あの頃は寂しいあまり、毎日泣いていたような、とっても弱虫な私でした。
そうこうしているうちに、語学学校で知り合った韓国人のお友達が出来た。お互いつたないドイツ語を解かるようにゆっくりしゃべりながら、たまにお互いの家を行き来し、一緒にご飯を作ったりした。やっとドイツ語での会話の友達が出来たのだった。
しばらくして、一人の生活にも慣れてきた頃、以前この部屋に住んでいた人が前から置いてあったキーボードを取りに来た。その時私もお手伝いして部屋からキーボードを運び出そうとした時、なんとー!、ドアが閉まってしまったの!!。
こちらのドアは一旦閉まると、鍵が無いと開かないシステムになっていて、さぁ~困った、、、、、。鍵もお財布も部屋の中。。。不幸中の幸い、スリッパではなく、靴に履き替えていたところだった。
苦肉の策でその人にお金を借りて、電車に乗って音大まで行き、大家さんでもあるWulff先生を見つけ出した。「鍵を部屋の中に入れて閉めちゃったー!」と、しどろもどろのドイツ語でやっとこさ理解して貰ったら、「僕のレッスンが終わるまで待ってなさい」と言われてしまい、待つこと6時間。。。もー悲しいの一言だった。。。。
皆さんこちらに来たら気を付けましょう、鍵は持って外に出る様に、、、!
♪♪♪ ♪♪♪
ドイツの家は大体、天井がとっても高いから電球を取り替えるのも大問題なのです。
椅子の上に乗ってみて取り替えようと思っても身長156センチの私には全然届かない。洗面所には窓が無い造りだったので、本当に真っ暗でシャワーも浴びることが出来なかった。そこでまた教授でもあり大家さんでもあるWulff先生登場!。
「すみません、電球が古くなって新しいのに取り替えたいのです。。」「もーしょうがないな~、分かったよ仕事が終わったら行くから待ってて。」と言った具合に、教授を呼び出して電球を取り替えて貰う事になってしまった、、、。
さて教授が来て洗面所の電球の様子を見ようとした時、「妥子、ライター持ってるか?」と勿論、ドイツ語で聞かれ「もちろん、持ってます、ちょっと待ってて下さい!」と急いでライターを渡したら、「ふふふ、っと馬鹿にしたようなふくみ笑いをされて突然部屋から出て行ってしまった。
「ん~?、なんで出て行ってしまったんだろう。。。きっと真っ暗で何も見えないからライターの火で少しでも様子を見られればと思って私にライター持って来てって言ったのでは無いのかな~?????」と途方に暮れていたら、突然教授が帰ってきて、車の中からはしごを取って来た。
「妥子、ドイツ語でライターは梯子の事なんだよ!」と言われ、私は赤面してしまった。私は、”~~持っているか?”だけをドイツ語で解釈して、”ライター”を日本語のまんま解釈してしまったのだった。「そうか~ライターはドイツ語では全然違う意味なんだ~。」っと後で改めて自分の思い違いに気が付きました。。。。あー恥ずかしかったわ!
初めてドイツの語学学校(International School)に通った。もちろん授業はドイツ人のドイツ語!「解かる訳無いやん!、日本語で説明してくれな~解からん!。」と思いながらホンマに解からない授業を受けていた。クラスには日本人が一人もいなかったし、それも残念だった。
例えばゲーテ(ドイツ語学学校)に通うと沢山の日本人がいる状態なので、解からない事はすぐに友達に聞けたでしょう。。それとゲーテには寮もある(清潔一人部屋)ので、初めて来る人には語学学校と住む場所がセットで日本から予約出来るので心配な人はこうしてみても良いのではないでしょうか?その代わり、他の語学学校よりはお値段も高めです、、、、、、、笑。
私は孤独に日本人がいない状態で授業を受けていたら、韓国人のお友達がいろいろ助けてくれました。もちろんカタコトのドイツ語で、解からない時は漢字を書いてなんとなく説明してくれた。これで解からない授業も大分、理解出来る様になった!
今なら、ドイツ語で道を訪ねられてもOKです(笑)
フライブルグ駅にて
さて来て1ヶ月の間はとにかくすることが多い。
銀行口座、ビザ申請、保険加入、住民登録などなどドイツ語も出来ない、初めてドイツに来たばかりの私には本当に訳の分からない事だらけだった。
住民登録に行かなければならず、とりあえず外人局に行き、登録用紙と辞書を片手に何時間もかけて必要なことを書き入れ、提出した。
その後”ごみ代”とかいう請求書がきて、1年間にいくらかのごみ代を支払わなければいけないことを知った。フライブルクは特に環境に一番心がけている綺麗な街で、ごみも4種類に分けて出さなければいけないことを知った。生ごみ、紙類、プラスティック類、その他、と言った具合。プファンド方式も利用していて、牛乳ビン、ヨーグルトのビン、水のビンなどを返すといくらかお金が戻ってきて、それを再利用する形が用いられています。
大学の街フライブルクには3箇所(たぶん)の大きなメンザがある。
私も語学学校を終え、韓国人のお友達(ソージョン)と一緒に毎日通った。
学生や語学学校生であることを証明出来ればチケット(食券のこと)を買えて安い学食が食べられることになっている。でもカロリーが高い上に、最初は味の濃さにも耐えられなかった。油も多く使用していて、ボリュームたっぷり。でも学生にとってはここで栄養を摂り、夜はパンとチーズ、ハムで済ますというのが基本なのです。
そうこうしているうちに、受験前のストレスや、初めての一人暮らしでの緊張などなどで、カロリーの高い学食を食べて行くうちに、かーなーりー太ってしまったのです!。
練習をするからお腹もすぐ減ってしまい、つい間食してしまったのも原因でした。あの頃は、ホンマにおデブのやっちゃんでした。。。。
トホホ、、、、、
初めてドイツのスーパーで買い物をした時のこと。
野菜がゴッツイ!大きいんです。お茄子もキュウリも「一体、君は何者なのですか?」というくらい大きいのです。たぶん日本の3倍は有るんではないでしょうか?。最初は似ているけど「きっと違う種類の野菜なのかな~?」と思い、手が出ませんでした。
野菜コーナーには必ず量りが置いてあって、ビニール袋に例えばトマト3つを入れ、それを量ると値段の書いたシールが出て来てそれを貼ってレジに持って行きます。
日本のスーパーではパックに入ってたり、もうすでに値段シールが貼ってあるので、日本の習慣が身についていた私にとっては、ドイツのシステムは思いつきもしませんでした。初めてのスーパーでのお買い物では、レジにそのまま野菜を持っていった所、すごーく嫌な顔をされて「あんた~、ちゃんと量ってこなあかんでー!」(勿論ドイツ語で言われました)っと怒られてしまいました。
お肉を買う時は、必ず「何グラムちょうだい。」と会話をしなければなりません。
ハムを買うのも「何枚下さい。」とか言わなければならなかったので、ドイツ語を覚え立てで、まだ話すのも慣れていなかった頃の私は、いつもどきどきしながら注文していました。今から思うと懐かしい思い出です。。。
9年前の私はそんな事でいちいちドキドキしていたんだなぁと、今の自分と比べて見ると”エライちゃうやんかー!”と思います。今の私は、レジの人が間違えて値段を少しでも高く打ったら即座に、”それちゃうで~!“(ちなみにドイツ語)っと抗議出来る様になってしまいました。。。エッへん。
それからこちらでは人参をおやつ感覚で食べる人が多いのです。それも、スーパーで売っているまだ洗ってもいない、そして皮もむいてない状態のものを1本取って、まだ会計も済ませていないのに、いきなり食べ始めるヤツがいるのです!
子供でもそうやって食べてしまう所を発見して、当初はすごーくショックでした。だって馬じゃあるまいし、”なんでそんな丸かじり出来るの?。それもお金を払う前に!“んー解からん。。
でも、きっと健康に良いことは間違い無いですね!
ね~デッカイでしょう? このナス!
1リットルの牛乳パック位有ります。(←マジ)
右手に持っているのはパプリカ。
そろそろ受験の日が近づくにつれ、緊張やストレスで体調がおかしかった。毎日メソメソしてた事や、寂しかった事で精神的にまいっていたのでしょう。自分ではそんなストレスは溜まっていないと思っていたのに、身体は正直だな~って思いました。
大学院の競争率はすこぶる高く、おまけに外国人に対しても厳しい、そして生徒を受け入れる席が十分に無い、と聞いていました。その為、鬼のような練習を続けて、さらにレッスンも受けていたものの、「今回は不合格かも、、、」と頭の中ではそう考えていました。
打楽器科の入学試験は少々特別で、受験者全員が大きなコンサートホールへ音大の打楽器を運ぶ事から試験が始まります。次に、ひとり30分間の枠が与えられ、小太鼓、ティンパニー、マリンバ、マルチの演奏を試されると言った具合でした。
”やっぱり緊張して思うように演奏出来なかった。あ~もうだめだわ。“と諦めかかっていた矢先、運良く合格!。ギリギリで合格した。喉から手が出る程欲しかった合格通知、そしてこの2年間の留学チャンスを「頑張ろう!」とあらためて思い直したのでした。
とある演奏会でのセッティング。
こんなに沢山の楽器を準備します。ちなみに、しゃがんでいるのが私。
さて合格が決まると、さっそく家探しを始めなければならなかった。
教授のアパートは夏の受験までと決められていたので、出て行かなければならなかったのだ。
その頃は探し方も分からなくて、フライブルクに長く住んでいる日本人の人が家を見つけて来てくれた。そこは、ユーゴスラビア人のおばあさんが大家さんで、彼女も住んでいるアパートの一室を貸してくれた。
台所やお風呂場は共同だけど、とても清潔にしているので住むのには良かった。でも練習の鬼だった妥子は毎晩帰って来るのが22時頃になるので、台所でご飯を作るとおばあさんがうるさくて起きてしまうのだった。
結局、気を使ってしまい(一応私は日本人です、、、、、、笑。)外食になったり、パンになったりと不規則な食生活になってしまった。
ある事件が起こった。私は自分の部屋に専用の電話をつけて有ったにも関わらず、ある日おばあさんが「私の電話で電話したでしょ?」と物凄い剣幕で請求書を突きつけられ責められた。「いつもより高いのよね、あなたでしょ~!」っと決め付けられた言い方をされて、とってもショックだった。
私は人からこんな形で疑われることも初めてだったし、ドイツに来て私を信じてくれない人がいるのがショックで「わたしじゃない!」っと言うのが精一杯で、あとはずっと泣いてしまった。
それを見たおばあさんは、「ごめんね。」って謝ったけど、次の日から電話のダイヤルに鍵をつけた。
早速、私は家探しを始めた。昨日は悲しい気持ちで一杯だったが、今日は”こんなに人の事を信用出来ない人がいるなんて、、、。“と怒りがおさまらなかった。
新聞の水曜日と土曜日には、「こんな部屋でいくらで有りますよ。」という広告が載る。
それを朝一番で見て気に入ったものがあればすぐ電話か手紙を書く。人気の物件はすぐ売れてしまうので、時間が勝負なのです。
今回見つけたのは2部屋でWG(共同生活の意味)、音大の近く、と書いて有り、丁度日本人のピアノ科H子さんと探していたので一緒に部屋を見に行った。
訪ねて行って見るとドイツ人のおばあさんが出て来て、「私の家はとても大きく一人では住みにくいので2階を全部使って下さい。」という事だった。2階には、大きな台所、大きなバスルーム、2つの清潔でかわいい家具つきの部屋があった。
私たちはすぐ決めた。ところが~住み始めてからすぐ、ここのおばあさんは大変神経質だという事に気が付いた。例えば、台所で包丁を使って野菜をトントンと切っていると、ドアをガンガン叩いて、「今、何してるの~?」っと大声で叫ばれる。「野菜を切ってま~す。」と言うと、「あーそっか。」と言ってまた下に戻る。シャワーを浴びている最中に、またドアをドンドンとノックして、「シャワー壊してなーい?」と聞かれ、「髪を洗っているのですが、水の音がウルサイのでしょうか~?」と言うとまた納得して下へ降りていく。
学校から帰ると何か酢の匂いがして、台所へ行ってみるとコップに酢が入って置いて有る。 、、、、、?。おばあさんに「何ですか、これ?」って聞くと、「台所のお料理の匂いを消すためよ」とか言って、勝手に部屋まで入って綺麗に使ってるかどうかチェックしてる様子だった。
そうこうしてるうちに”台所禁止令”が出された。包丁の音がうるさいというのが理由だった。これではお話になりません。こんな神経質な大家ではとてもやっていけないと言う事になり、また家探しを始めた。
この後、たまたま知り合いになった日本人の弁護士さんに助けて頂いて、保証金の事などで、おばあさんとの間に入って貰い、何とか解決にこぎ付けた。
この方がいなかったら、私達はきっと莫大なお金をとられていた事でしょう。「ありがとうございました!。」
日本人の女の子に目をつける悪い大家が多いそうです。理由は日本人は何も反抗しないから、、、、。
でも今の私は違いますよ!
今度も必死に新聞で探した。打楽器は音大にしかないし、毎日6-8時間は練習をしていたので、とにかく音大の近くを探した。
そして、とうとう音大から歩いて4分の家を見つけた!
3階建ての大きな家で、3階は3人の男の人がWGをしていて、2階は一部屋だけ空いおりバスルームも付いていた。その2階を私に貸してくれたのです。
今回は失敗の無い様に、友達に契約の時に付いて来て貰い、
”チェック!”
即、決まり!。そして、また引越し。。
でもその頃は自動車1台で積める位の荷物しか持ってなかったので、楽だったものの、もう引越しにはコリゴリしていた。
他の学生は一回で良い物件が見つかり、何の問題も無く、ず~っと住んでいるのに、”何で私だけこう、運が悪いのかな、、、。”って、またまた悲しかった。。。
その頃は大晦日の時期で、私は一人で大晦日を過ごし、おまけにテレビもラジオも無い生活だった為、どんなに寂しかったことか、、、、、。それに引越し騒動で散々弱気になっていたので、とっても暗い妥子でした。(まだ続く引越し。。)